西岐城のある一角にある執務室。
そこで太公望は仕事をしている。
その日は、珍しく根を詰めていたせいもあってか、
夕刻には慌しく動いていた空気も静まって執務室には太公望のみを残して
誰もが部屋を後にしていた。
「今日は妙に疲れたのう。うーむそれもこれも旦のやつがせかすからであろうが…」
今日中、もしくは近日中に行わなければならない仕事はほとんど終わっていても、
やはり太公望はまだ残っていた仕事を片付ける為に昼間に続きその筆を進ませつづけていた。
「ここはやはり桃を…」
仕事を進ませながらも桃のことは頭からはずさない。
しかし、昼間の疲れもあって、いつしか太公望の意識はその睡魔に侵食されていった。
「いいかい望。そこで父のやる事をよく見ているのだよ」
望と呼ばれたその少年は、目の前に立つ父親の姿を尊敬の眼差しでじっと見つめていた。
望の隣にはまっすぐな黒髪を優しい風になびかせた母親が立っている。
父親がその手に持った小さな笛を吹くと、羊たちが一斉に動き出した。
動き出した羊たちはそのまま父親の導くままに動き、次々に柵の中に入っていった。
「わあ!父上すごーい」
「お前がもうすこし大きくなったら手伝ってもらうから、
今日は母上と一緒に羊毛狩りを手伝ってくれ」
柵の中から出てきた父親に頭を撫でられながら、
望はその無垢な笑顔を向けて返事をした。
「はい!いきましょう母上!!」
「ん…」
自分の髪に優しく触れられたその感触に目を覚ました太公望はそっとその瞼を開く。
いつのまにか毛布が掛けられた自分の目の前には、端正な顔立ちをした蒼い髪の青年がいた。
「あ、起こしてしまいましたか?」
「なんだ楊ゼンか…何しに来たのだ?もう今日の仕事は終わっておるであろう」
ゆっくりと机にもたれていた身を起こして、楊ゼンに用事を尋ねる。
「いえ、別に用事はないですよ。ただ、師叔の様子を見に来ただけです」
「様子…もしかしてこの毛布はお主がかけてくれたのか?」
「ええ、ぐっすりと眠っていらしたようなので。疲れているならお茶でもいれましょうか」
そういって楊ゼンは執務室をあとにしようとするが、太公望は彼を呼び止める。
「待て楊ゼン」
「なんですか?」
「お茶菓子は本物の桃か桃饅頭がいい」
それを聞いた楊ゼンは、ふんわりとその端正な顔に笑顔を浮かべて頷いた。
「分かりました。じゃあ桃饅頭を用意します。少し待っていてください」
「うむ」
楊ゼンが部屋を後にして、太公望は再び静かになった部屋の窓から空を見上げた。
「むう。いつのまにかこんな時間であったか」
そこには昼間の青い空はなく、日が落ちかけ、橙色の空へと染まり始めていた頃だった。
「太公望師叔。お茶の用意ができましたよ」
「おう楊ゼンすまぬのう」
「いえ」
楊ゼンは持ってきたお茶セットを机の上に置いて、自分も椅子に腰掛ける。
窓から外を見ていた太公望も楊ゼンと同じように椅子に腰をおろし、桃饅頭に手を伸ばす。
「さっきはどんな夢を見ていたのですか?」
「む?」
桃饅頭を頬張ったまま、視線を楊ゼンに向ける。
「…質問の回答は食べてからでいいですよ」
湯飲みを手にとって太公望に言う。
「さっき眠っていた師叔の顔がとても幸せそうだったので、
一体どんな夢を見ていたのかなって気になったんです」
楊ゼンは太公望が桃饅頭を食べた後に言おうとしていた事をさきに回答する。
「ん、まあたいした事ではないよ。ちょっと人間界にいた頃の事を夢に見ただけだ」
「人間界の…確か姜族の頭領でしたよね。お父上は」
「ああ、母上も優しかったし。良い両親であったが……」
途端に太公望の口が詰った。
「――あ…そうだ師叔!この桃饅頭どうですか?」
その訳を推測した楊ゼンは慌てて話題を変えた。
すぐに気持ちを察した楊ゼンに甘えて、太公望もすぐに話を切り替えた。
「ああ、なんだかいつもより甘さが増しておるようだのう」
「流石は師叔。今日は師叔のために特別にいつもより甘味を多くした特別製ですよ」
「ほほ〜う」
大分機嫌が良くなったのか、ちょっと頬を赤らませて喜んでいる。
「ん〜お茶もうまいし。最高じゃのう」
「ねぇ師叔」
「ん…?」
「今、幸せですか」
突然の楊ゼンからのその問いかけ。
太公望は特に慌てるでもなく、冷静に答えを組み立てる。
「そうだのう。確かに今この時間は幸せだ。おいしいお茶も饅頭もある。なにより…」
「なにより…なんですか」
「…そ、そんな事いえぬ」
「言ってくださいよ」
両手に頬杖を付きながら、恥ずかしがる太公望に向かって微笑を向けている。
「それは…その…」
さらに頬を赤くして下を向く太公望。
対になる位置に座っていた楊ゼンは、太公望に気付かれないように立ち上がって近づく。
「ど…どうでもよいではないか!――って楊ゼン?」
目の前にいるはずの楊ゼンの姿が見えず、ぼうっとする太公望。
「師叔」
その声に呼ばれる方向に顔を向けると、ふいに、やわらかいものが唇にそっと触れた。
それが先ほど起きた時に髪の毛を触れていたものではないと認識した時には、
楊ゼンの顔全体が目の前に見えた。
「僕は…今は幸せですよ。こうして、あなたと一緒に過ごせる時間があるから。そう。今は」
ずっとこんな時間が続けばいいのに
――そう小さく呟いて、
楊ゼンは太公望に目線を合わせる形で曲げていた身体をまっすぐに直した。
「じゃあ師叔。僕はこれで」
「……」
顔を耳まで真っ赤にした太公望は呆気にとられた表情で楊ゼンの顔を見ている。
そんな太公望を見た楊ゼンはまたくすりと笑った。
「師叔、夕日みたいに真っ赤な顔をしてますよ。
ああそうだ、くれぐれも身体には気をつけてくださいね。風邪なんてひかないように」
そういい残して楊ゼンは執務室を後にした。
幼かったあの頃…母上が云われた事。
「望…お前は今幸せかい?」
羊の毛を丁寧に刈りながら母上はそう尋ねた。
幼い自分はすぐに頷いた。
「そう。どうしてそう思う?」
その質問に、一瞬戸惑ってしまったけれど、その時はなんとか答えていた。
「えっと…皆がいるからです。おばさんや、おじさんや、何より母上や父上がいる」
それを聞いた後、母上は笑っていた。
「今この幸せな時間を大切にしなさい」
そういいながら父上と同じように頭を撫でてくれた。とても、優しく。
さっきいいかけた言葉。言いかけて、恥ずかしくて、言えなかった言葉。
楊ゼンの唇が触れた場所を、自分の人差し指でそっと触れながら、
もう一度その思いを組み立てて、言葉にした。
「…お主がいるから。わしは今、幸せだ」
ずっとこの時間が続いたらいいのに。ずっと、こんな風に、幸せな時間がもてたらいい。
わずかに部屋を赤く照らしていた夕日は沈み。部屋の中から陽の光が消えた。
空には小さな星が輝いていた。その日は小さな星だけが、夜を明るく照らしていた。
-了-
777hitを踏まれた文愉凜さんからのリクエスト。
”楊太小説。西岐の頃のお話。
不意をつかれて楊ゼンにキス(軽く。フレンチ。)された太公望。
一瞬呆然としてるけど、キスされた唇を人差し指でちょっと触って(軽く押す)
ほんのり微笑んで動き出す〜”
という事で、今度はほのぼのですか文愉さん(−−;
自己生産の願望がこちらに…?
それとも愛の鞭(笑)
なんてあほな事は置いておいて、今回はどうでしたでしょうか。