清襟
夜半である。
太師の邸宅を退出した浩瀚に、薄明るい回廊で礼をとる者があった。
すぐそばまで寄って、足を止める。
「こんな夜中に、何のお誘いかな」
そう言って微笑すると、近すぎるためか女御は二歩下がった。
「主上のことなのですが」
からかいの言葉は無視したつもりのようだが、口許が引きつっている。
浩瀚は更に深めた笑みを、一度の瞬きで隠した。
鈴は少々複雑そうに彼を見上げてから口を開いた。
「少しでも早く公務を終えられた時、主上がお料理の練習をなさっていることをご存じですか?」
「料理……いや。料理など……まさか、延王に食べていただくためとでも?」
はい、と鈴が首肯すると、浩瀚は闇に包まれた庭院に視線を彷徨わせる。
「特に政務に支障は来しておらぬし、王が料理などすべきでない、などと言うつもりはないが?」
再び目を戻すと、鈴が困ったように笑む。
……五度の呼吸の後。
沈黙の帳を上げたのは浩瀚だった。
「それで。お上手ではないから、お止めせよと?」
「下手ということはないのです。蓬莱のご両親の躾が厳しかったとかで、料理も少しは……だから指を切るとか、そういうことはないのです。こちらの調味なども教えて差し上げたし。ただ……」
弁護の言葉を並べていた鈴は、そこで躊躇いを見せた。
「ただ?」
「……ただ、火の加減がどうしても難しいようなのです。あちらでは、今はそういうことがとても簡単にできるそうですので。……私も気を付けていますけど、いつ火傷するかとはらはらして」
場合によっては、手を切るよりもずっと大怪我になり得ることだ。見ている鈴の気持ちも推して知るべし。
「それだけでも、手を貸して差し上げるわけにはゆかないか」
「もちろん、お手伝いしたこともあります。でも礼を述べられながら陽子は、一人ではこんなこともできないんだというように……自嘲しているようで……」
想像に難くない。浩瀚は首を振った。
「そんなことで自嘲することもなかろうに。つまり、主上の健気さ故にお止めできる者がおらぬ。だから私に悪者になれと言うわけだな」
浩瀚の言葉を受け、女王と同じ年頃の姿をした女御は、にこりと笑った。
「まあ、悪者だなどと。さすがは浩瀚さまと、皆、きっと感激いたしますわ」
大切な女王を哀しませないように考慮せよ、ということか。
いったい、これは冢宰の仕事だろうか。
内心、嘆息してから、浩瀚は尋ねた。
「それで、火加減に失敗した料理はどうしている」
予想通り、鈴のきょとんとした視線が返ってきた。
内殿に王を訪ねようとしたところ、執務室に着くまでに会うことができた。
三方を回廊で囲まれた庭院の中央にある池のほとりに立って、浩瀚は奏上しはじめた。御璽も要らぬ内容であるし、景王に仕える者にはそのくらいの寛容は不可欠である。それは彼女がわがままだということではなく、こちらが余裕を持てない状況ならば、彼女は一人で全てを抱えて耐えてしまうからだ。
奏上を終えてから浩瀚は、石造りの椅子にかけた女王を見直した。
「ところで主上。その髪はいったいどうなさったのです」
目に見えて、王はぎくりとした。
無意識に、垂らした髪の先を押さえかけ、はっと手を止める。
浩瀚はにこりと笑んだ。
頭の中では、二日前に鈴から聞いたことを思い出しながら。
「まるで焦がしたように見受けられますが」
その言葉に、王は少し顔をしかめた。
「なんだ、知っていたのか。……まったく。その嫌味に見えない笑い方はやめてくれ」
「そのようなつもりはございません」
嘯いてから一瞬で笑みを引っ込める。
「大事な御身に、火傷など負われますな」
「火傷は、してない……」
困ったような表情で、彼女は長い緋色の髪を前に手繰り寄せる。
「隠れてると思ったけど」
今日は束ねることすらしていないと思ったが、どうやら、焦がしたところを隠していたらしい。
「ええ、お近くで拝見しなければ分からないでしょう。……主上」
微かに息をつき、言を継ぐ。
「髪ですんでようございました。しかし、それでも周りはどれほど心配することか。主上もそれをご承知だからこそ、隠されているのでしょうが。……延王が、お気付きになられないとお思いですか」
女王は、ぐっと詰まったように押し黙った。浩瀚は更に続ける。
「公務の後、お疲れのところをおして、しかもご自分のために主上がお怪我でもなさったら、延王とて責任を感じられてしまうかもしれません」
碧の瞳が、はっと浩瀚を見上げた。
浩瀚は微笑する。
「無理はなさらぬことです。この先いくらでも、時間はございますでしょう」
しばらく、女王はどこか不思議そうに浩瀚を見ていた。やがて、彼女は苦笑をもらした。
「うん、分かってる。それでも女の子の気持ちとしては色々あるんだけど……ごめん。私は欲張りだから、急ぎすぎるんだな」
女の子の気持ち、と言われると、浩瀚には想像するしかない。女の気持ちならば、それなりに扱い慣れているのだが。
「焦がした料理を、勿体ないからと食されているようですが、夜中にあまりたくさん食べられていては、お身体にも良くないでしょう」
王を唖然とさせておいてから、浩瀚は、さてと呟いた。
「よろしければ切りそろえましょう」
申し出の意味を掴み損ね、王は目をしばたたかせる。そして、きょとんと聞き返した。
「浩瀚が?」
はい、と小刀を取り出すと、彼女は目を丸くした。多分、そんなものを持ち歩いていることに驚いたのであろうが、それについては触れない。
「器用そうだね、浩瀚て。じゃあ、頼めるか」
「はい。では失礼して。……後に立たれることはお嫌いでしょうが、少々我慢してください」
「……うん、気にしないで」
背後に回ると、浩瀚は石畳に片膝をついた。
女王の緋色の髪は豊かに波打っている。そのため、焦がした部分もそれほど目立たないが、カサカサと硬くなり、そこだけ少なく短くなっている。
「祥瓊には見つからなかったのですか?」
「……今日はこのままで良いと、逃げたから」
それでいつまで隠していられるか、怪しいものだ。
「勝手に切ってしまうと、叱られますね」
焦げた部分は、完全に切り落とした。
「仕方ないな」
王は溜め息をついているらしい。
こういうことで、祥瓊に勝てるはずがない。もしかすると自分にも飛び火するだろうかと考えると、浩瀚はつい笑んでしまう。
切った長さに全て揃えるようなことはせず、全体の様子を見ながら削いでいく。これで、少し短くなった程度の印象を与えるだろう。
途中、回廊に人が立ったのを目の端に捉えたが、あからさまにそちらを見ることはしなかった。
「できました」
そう言って立ち上がる。
「もう?ありがとう、浩瀚」
笑顔で見上げる女王に笑みを返し、そして告げた。
「延王がお待ちですよ」
と。
「は?」
王がぽかんとしたのは一瞬のこと。
慌てて首を巡らせた彼女は、回廊に隣国の王を見つけて瞠目した。
浩瀚は、表情までは見えない延王に拱手する。
「どうぞ、お行きください」
「あ、うん。じゃあ、ありがとう」
もう一度笑って、女王は半分駆けるように恋人の元へと向かった。
延王の傍らに控えていた女御が、二人を見送ってから浩瀚のところへやって来た。そして、恨めしげに言う。
「何故、浩瀚さまが主上の御髪をお切りになっていたのですか?」
しかも、こんなところで。
珍しくも延王を案内している途中でそんな光景を目にしてしまった鈴は、凍り付いて動けなくなった。延王の顔を見ることもできず。
「焦がしてしまわれたのだな」
驚く鈴に、浩瀚は肩をすくめた。
「鈴の見張っていない時なのか」
「存じませんでした。……それで祥瓊にも触らせなかったのですね」
大きな溜め息をついて、鈴は地面を見た。
「片付けておきます」
「ああ、頼む」
首肯してから、ふと彼女は呟いた。
「なんだか、勿体ないな」
浩瀚は僅かに首を傾げる。
「切った髪がか」
「あ、ええと。いつもは先を揃えるだけなのです。……長いものは中指以上ありそうですね。主上の御髪はきれいな色だから、なんとなく勿体ない気がしたんです」
鈴の言を聞いていた浩瀚は、何事かを考えながら二人の王が去った方へ視線を流す。
そして、ふっと笑んだ。
様子を見守っていた鈴は、思わず後退った。
「どうかしたのか」
承知の上でわざわざ尋ねられても、鈴にすれば、何でもないと答える他ない。見なかったことにして早く片付けてしまおうと決めたところへ、計ったように浩瀚が言った。
「鈴、髪を集めたら私のところへ持って来てくれ」
と。
問い質す愚はおかさず、鈴は諦めの笑みで応じたのである。
「夜食はお止めになったようですね」
景女王は書卓を挟んで、自国の怜悧な冢宰を軽く睨んだ。
「それでは食べることが目的みたいだ。……やめることにしたよ、しばらくは。延王にも祥瓊にも絞られたし……」
浩瀚に髪を切ってもらってしまったので、理由を話さない訳にはゆかなくなったようだ。
それが狙いだったのではないかと、王は疑っているようなので、確信させるように微笑する。
「左様でございますか」
嘆息している王に、浩瀚は細い漆塗りの箱を差し出した。
「なんだ?」
書卓に置かれたそれと、彼の顔を交互に見比べる。
「ご機嫌取りですよ」
手に取って蓋を開けた彼女は目を瞠った。
入っていたのは、一本の筆。
それだけならば驚かないが、その筆の毛は緋色だった。
女王の髪と同じ。
否、それは彼女の毛髪から作られたものだった。
「王の御髪で勝手にこのようなものを作るなど、不敬と罰せられても仕方のないことです。が、捨ててしまうのは忍びないと、女御にも言われましたので」
唖然としていた彼の主は、まだ虚を衝かれたまま頷いた。
「別に罰したりはしないが……変なことを思いつくなぁ……」
そう言われて浩瀚は苦笑する。
「短いものが多く、結局その一本しか作れませんでした。主上がお持ちになってもよろしいですが、延王に差し上げては如何でしょう」
「延王に?」
「主上には、ご自分の御髪など気に止めるものではないかもしれませんね。ですが、頻繁にお会いできるわけでもございませんし、延王ならば、きっと大切になされるでしょう」
少し考えて、王は首肯した。
「そう、かな。……うん、ありがとう、浩瀚」
受け取る恋人の顔でも思い浮かべているのか、はにかむように笑んだ彼女に対して。
「とんでもございません」
と、実に涼やかに彼は答えたのだった。
後日。
「これで我慢して、あまり会いに来るなと言うことか?」
送られた雁の王は、そう呟いたらしい……
2002.11.11 UP
◆おおわさまのお言葉より◆
陽子に片想いしている浩瀚は私には無理でした。ごめんなさい(>
<)
別に浩瀚×鈴ではありません。楽しいみたいだけど、セクハラ?(汗)
ウチの浩瀚はどういう状況も楽しむ、というか
楽しくなければ意味がないという人らしいです。
未だによく分からない……。これで許してくださった、めれーなさまに感謝です(伏礼)
ほーっほっほっほっ!!vv
根性(笑)で、おおわさんちの12500HITをゲットしました〜!!vv
私にとっては、こちらが初キリ番ゲット!だったのです!!(嬉)
これぞ、おおわさんの『得体のしれない ぐれー浩瀚』!?(笑)
『得体のしれない』って、言ったよ私、言ったって^^;(←しかし失礼な…)
こちらこそ、ご無理を言って申し訳ありませんでした〜^^;
でも、これでおおわさんちに『ぐれー浩瀚』というニューキャラが!!vv(違?)
しかも、 後日談 まで奪い取りました!!vv うふふ〜!!
一粒で二度美味しいキリ、本当にありがとうございました!!vv
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