心象






「しかし、貴方は本当に器用なんですね」









 覗き込んだその手許を眺めて、桓堆(かんたい)は思わず感嘆の声を洩らした。
 負傷した右手で紙面を押さえ、左手で筆を器用に操り、書かれた字の流麗さは普段と全く変わらないように見える。書き手の性質をそのまま写したかのような、その文字。
「……本来は、左手の方が勝手が良い。ただ、筆を使うのに左では不自由ゆえに、滅多には使わぬのだがな」
 そう言って、浩瀚は左手に持っていた毛筆を静かに卓上に置いた。
「そりゃそうですね」
 文字を書くに当たって、左手でそれをすれば、手が墨で汚れることになる。ただ、目の前の男は、墨の一滴さえもその手に付着させることなく、涼しい顔でやってのけるのだが。
 浩瀚のあまりに普段通りの仕草や表情に、桓堆は苦笑した。
「本当に、器用なんですね」
「大概のことは。……唯一不自由を感じるのは、洗髪するときぐらいのものだ」
 思わず肩を竦めた桓堆にちらりと視線を向けて、浩瀚は立ち上がる。
「さて、待たせたな。飲んでいくだろう?」









 夜も更けて、程良く温められた御酒を口に運びながら。
 桓堆は目の前の浩瀚の横顔を見つめた。包帯の巻かれていない方の手で、器用に酒杯を持つ。やはり流麗な仕草だった。負傷して包帯を巻かれた腕は、袍の長い袖に隠れて見えない。もしも、知らない人間が見ても、この男が利き腕を負傷しているということには気が付かないだろう。それ程に、浩瀚は何の違和感も感じさせない。





「主上が落ち込んでおいででしたよ」
 桓堆が言うと、浩瀚は小さく息を吐いた。その表情は驚く様子もなく、淡々と事実を受け入れるような、そんな表情だった。
「……そうか」
「はい。……それに、貴方も少しは悪いのですよ」
 桓堆の言葉に、浩瀚は僅かに眉を上げた。
「浩瀚さまが主上を庇ったことではありません」
「では?」
「……主上は、浩瀚さまに何かして差し上げたいとお思いなんですよ。それを、貴方ときたら、涼しい顔で何でもなさってしまうから」
「桓堆……」
「少しは主上のお気持ちを汲んで差し上げたらどうですか?主上は、せめて浩瀚さまの役に立ちたいとお考えなのですよ」
「……主上には主上のなさるべきことがお有りだ」
「それは勿論、そうですけど」
「私は別に重病人でもない。今、主上のお手を煩わせるのは本末転倒ではないのか?」
「そう仰ると、身も蓋もないですね」
 桓堆の言葉に、浩瀚が若干の苦笑を滲ませた。
 彼がそういう顔を見せるのは珍しい。長いつき合いの桓堆でさえ、数えるくらいの経験しかなかった。
「主上や……お前たちが思っているよりも、私の怪我など何でもないことだ。耐えられないような痛みでもないし、不便なことも……」
「まあ、浩瀚さまは大層器用ですから」
「今日はやけに絡むな。酔っているのか?」
「俺がですか」
「難しい貌をしている」
「そうだとしたら、俺も主上と同じような気持ちなのかもしれませんね」
「桓堆」
 浩瀚の声音に、小さく頭を振って、酒杯を一気に空ける。
「……正直に言います。俺があの場にいて、みすみす主上を危険に晒し、更に浩瀚さまをあのような大怪我を負わせるなんて……。貴方は気にするなと仰いますが、気にしないわけにはいきません。……詮無いことを言っているのは判ってます。だけど、浩瀚さまのお姿を思い出すと……」
「……桓堆。それでも気にするな……というのは禁句か?」
「ええ、禁句ですよ。絶対に言わないで頂きたい」
「……お前、酔っているな」
「酔いたいんですよ、たまにはね」
「麦州でのことを思い出すな」
「……まだ覚えておいでですか。いい加減に忘れてください」
「そう言われてもな。あれは、なかなか印象深い夜だった」
「俺が酩酊したといえるのは、あの一晩だけです」








 後にも先にも、桓堆はあれ程までに酩酊した記憶が無い。まだ、麦州にいた頃だ。彼は州師の兵卒の一人でしかなかった。能力的にも体力的にも周りの兵士より秀でていたかもしれない。しかし、彼がそれ以上の何かを望める時代ではなかった。慶国では、半獣は位を得ることなど出来なかったのだ。
「浩瀚さまがとんでもないことを仰るからです」
 柴望に呼ばれ、浩瀚のもとを訪れた。そこで、州候であった浩瀚に、州師の将軍に任命された。有り得ない事実だったのだ。


















 浩瀚の私邸を出て、秋も終わり肌寒くなった夜の中を歩きながら、桓堆はぼんやりと考えていた。そして、今夜の、思いがけず感傷的になっている自分に自嘲した。
 息を吐いて前を見据えると、正寝に繋がる道すがらの四阿に、人影をみとめた。
 目を凝らしてみつめてみても、その人影はじっと俯いて桓堆には気が付かない。徐々に近づくと、夜の闇に慣れた目が、かの人影が誰であるかを悟らせた。





「主上?」
 小さく声を掛けると、少女は驚いたように顔を上げた。
「桓堆?」
「こんなところでどうなさったんですか」
「……ちょっと風に当たっていただけ」
 沈んだ声は嘘が隠せない。なぜ彼女がここにいるのか。彼女の臥室とほど遠いこの場所で、立ち竦むように俯いていたのは何故なのか。
「今、浩瀚様のところに行っていたんです」
 桓堆がそう言うと、陽子は僅かに瞠目した。何かを言おうと口を開きかけ、思い留まるようにして目を伏せる。
「……浩瀚は、元気だったか」
「ええ。普段通りでいらっしゃいました」
「そうか、それなら良かった」
 安堵の溜息を洩らして、陽子は苦笑した。
 彼はまるで怪我人というそぶりなど何も見せなかった。寧ろ、目の前の少女の憔悴した風情が痛々しい。
「今まで御酒をご一緒したんですが、私が退出した後にまだ仕事をすると仰ったので、早く沐浴して寝るようにと申し上げました」
「……浩瀚に?」
「はい」
「……そうか。では、私も戻るとするか」
 小さく呟いて陽子が立ち上がる。
 桓堆の前を通り過ぎ、正寝に向かって歩くその後ろ姿に、思わず声を上げていた。





「主上!」





 驚いたように振り返った少女に、桓堆は笑みを向ける。
「ちょうど良かった。浩瀚さまが負傷した腕で髪を洗うのは不便だと仰ってました」
 問うような眼差しで見つめ返してくる陽子に、桓堆は続ける。
「沐浴すると仰るので、私がお手伝いしようかと申し上げたのですが、お前は力の加減が出来ないから厭だと断られました」
 まだ戸惑ったように立ちつくす陽子に向かって、桓堆はもう一度微笑んで頷く。
 それに小さく頷き返して、身を翻した背中に、叫んだ。
「主上!浩瀚さまには私が泥酔していたとお伝えくださいね!」
 ありがとうと言って手を挙げる陽子の後ろ姿を、暫くみつめた。





 その影が小さくなり、やがて見えなくなると、桓堆は天を仰いで息を吐いた。
 いつの間にか冷たくなった夜の空気は、吐息を白くした。





「……私は酔っぱらっているので、明日には何も覚えてませんから」





 再び向けた視線の先には、もう陽子の影はない。
 突然の来訪者に、怜悧なあの冢宰がどのような貌をするのか、桓堆は暫くの間考えてみた。流石に驚くのだろうか?
 出過ぎた真似をしている自覚はあったが。
 それでも、明日の朝議には久しぶりに元気な主の顔が見られるかもしれないと、どこか晴れやかな気分で思った。









2002.12.4 UP








閣下と桓堆って、まさにこんな感じだろうなーと思いますよね!!vv
そんでもって……ううう><、クマさん、いい人だ…T_T。
いろんな方の「クマさん」話を拝見するうちに、
『クマさん=陽子を暖かく見守るお兄ちゃん』イメージが固まってきた私^^。
いや…襲い熊も捨てがたく…(何でもいいのね^^;)
更に更に、このお話にも続きが〜〜〜っっ><vv
すんばらしいです!!v 有沢さん〜!(泣喜)

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