勝敗

 

 

 

 それは珍しく、陽子が碁に勝ったことから始まった。
 蓬莱にいた頃には、将棋や碁などに全く興味のなかった陽子であったが、ここでの娯楽といっても限られる。「ルールが同じなら、取っ掛かりがあるかな」と思っても不思議ではないだろう。
 しかし、これがまた、幾ら説明を受けてもさっぱり判らない。最初はかなり口惜しい思いをしたのが-----「下手」だと自負する延王にさえ、全く適わなかったのはご愛嬌------、主に碁の指導を引き受けていた浩瀚が、ある方法を用いようと思い立った。
 それは、負けた者が勝った者の言う事を聞く、という、いわゆる「賭け碁」である。
 浩瀚にとっては、職務に頑張りすぎる陽子の手綱を適度に緩める方便として、或いは、負けず嫌いの陽子に目標を持たせよう、との目論みだったのだ…が。
 …だが、遂にその日は訪れる。










「……え?…私、勝ったの?」
 恐る恐る、碁盤を覗き込む陽子に、浩瀚は苦笑した。
「折角ですから整地してみますか?ざっと見た所、一目差で主上の勝ちですね」
 ひぃふぅ…と数えなくても、碁盤を見ただけで判るとは…、と、恐れ入りながら、もしかして間違いだったら大変、と、にんまりしながら、さっさと碁石を片付け始める。
 何石置いたとしても、勝ちは勝ち。一般的には卑怯とも言うが、初勝利の余韻に浸り、陽子は至福の笑みを浮かべた。
「…さぁー浩瀚、約束だからな」
「さて、何のことでしょう?」
「とぼけるんじゃないっ。百三十六回目にして、やーっと勝ったんだからな、絶対、私の言う事聞いて貰うぞ!」
「……何なりと」
 くすりと笑った浩瀚に、むっとしながら、陽子はううむと唸ってみた。
 根本的に「適わない」という気持ちが頭にあったため、自分が勝ったときの事を考えていなかったのだ。
 うんうん唸る王を目前に、浩瀚は涼しげに言った。
「別に即答なさる必要はありませんよ。思いついた時にでもお申し付け下さい」
 きーっくやしいーっ。
 何かこの、万事しらっとした冢宰を動揺させる「命令」はないだろうか、と、頭を掻きむしる。
 ------と。
 はたと閃いた陽子は、にっこりと微笑んだ。
「決めた。浩瀚には、私の髪を洗って貰おう」
 どうだ、まいったか、との如く言い放つ少女に、目前の男はさらりと答えた。
「そんなことでよいのですか。承りました」
「えっ?」
「御髪をお濯ぎ申し上げれば宜しいのでしょう?」
 えええーーーっ!?
 こんな素っ頓狂な「命令」にも、全く動じない冢宰に、陽子は内心感動していた。








 事が事だけに、それはひっそりと実行された。
 夜分、幾つかの湯桶が持ち込まれ、人払いされた浩瀚の房室に、どうも釈然としない陽子が、それでも興味津々現れる。
 元々読書好きの陽子は、書斎独特の匂いが漂う浩瀚の私室を、密かに気に入っていた。書物が放つ静謐な空気に、ほんのり混ざる香の匂い。
 勿論、そこにある書物の殆どは、今の陽子には到底解読不可能だったが、堅牢な作りの書架一杯に詰め込まれた書物や、書卓に積まれた書物を見ると、何故だか心が落ちつくのだ。
「どうぞ、こちらへ」
 部屋の隅に設えた榻の角に頭を乗せて仰臥する陽子をにっこりと見下ろし、浩瀚は、台の上に乗せた湯桶へ、長く美しく見事な赤髪を、そっと入れた。鹸木末を湯に湿らせ泡立て、丁寧に梳き始める。
 湯浴みの時は女官が髪を洗う。背中はともかく、身体まで人に洗われるのは未だ抵抗がある陽子だったが、人に頭を洗って貰うのが爽快であるということには、以前から馴染みがあった。
 そう、女官の手と違い、この状況はどちらかと言うと、蓬莱の美容室だ、と思う。
「…これで「痒いところはございませんか?」なんて言ったら、ほんとにシャンプーボーイだなあ」
「は?」
 聞き慣れない蓬莱語に、浩瀚は首を傾げる。
 いや、なんでも、と笑いながら、官能的ともいえる、心地よい、男の大きな手の感触に、瞑っていた目をそっと開いた。
 途端、間近に顔を寄せた浩瀚と目が合い、思わず顔を逸らす。これは…少々恥ずかしい。
「自分の髪しか洗った事がないので…こんな感じで宜しいのでしょうか?」
 そう、柔らかく問うてくる声に、陽子は、あれ?と、呟いた。
「浩瀚は、自分で髪を洗ってる?女官は付いてない?」
 冢宰といえば、候。位は麒麟に次ぐ。それなりの礼を尽くされて然るべきだ。
「……私が、苦手なので」
 「苦手」という理由だけで、湯浴みの際に他人を遠ざける方法があるなら、是非教えて欲しいところだと思う陽子だったが、それは、自分の立場を忘れた発想である。
「そうか?人に髪を洗って貰うって、気持ちいいと思うけどなあ」
「気持ちいい…ですか?」
 耳元でそっと囁かれ、陽子はぞく、とした。思わず身じろごうとして、浩瀚に窘められる。
「こっ、浩瀚、お前」
「はい?」
「…今、気付いたが、お前もしかして、賭けのことなしでも、私が「洗え」と言ったら、洗ったんじゃないだろうな」
 黙々と、新しい湯で髪を濯ぐ男は、事も無げに答えた。
「今、気付かれましたか」
 それでは、私が勝った意味がないじゃないかっ、と陽子は足をばたばたさせた。その様子を面白そうに見ていた浩瀚は、更に追い討ちをかける。
「主上」
「…み、耳元で囁くな」
「私は例え「背中を流せ」と命じられても、その通りに致しますよ」
「!」
「…次はそう、致しますか?」
 くすりと笑いながら、濡れた髪を拭く浩瀚に、榻に凭れた陽子は静かに問うた。
「じゃあ…添い寝しろと言っても、従うのか」
 浩瀚の手が止まる。
「…主上は、私に「添い寝」をお望みなのですか?」
「えっ?」
 逆にそう問われ、陽子は口篭もった。
「その気もないことを、軽軽しく口にするものではありません」
 ぴしゃりと切り捨てられたような気がして、黙る。
「…「添い寝」は、謹んでお断り致します」
 (そりゃそうだよな)
 半分ほっとしたような、がっかりしたような、複雑な気分。
 (…あれ?なんでがっかりするんだ、私?)
「「添い寝」だけで済ませる自信がございませんから」
 背中越しに、思いがけない答えが返って来て、陽子は思わず振り向こうとした。が、髪を拭く布ごと、ふわりと抱き竦められる。
「浩瀚…!?」
「……あなたは本当に、無用心過ぎる」
 耳元で囁く、甘く優しい声。その声色とは裏腹な科白に、陽子は愕然とした。抱かれた腕の力が強くなる。背中に感じる、男の重みと、体温と、香の薫り。
 それが、この部屋に漂う香と同じものだと気付いた途端、陽子は、かああと、熱くなった。
 ------本当に、私は迂闊だ。
 不意に背中の温もりが陽子から離れた。まるで、何もなかったかのような、刹那の抱擁。
「こ…」
「ちゃんと拭かないと、お風邪を召しますよ。乾くまで、こちらにお留まり下さい。今、お茶をお入れしましょう」
 そういって、平然と奥に下がる男の背に向かって、陽子は呟いた。
「お前…ずるいぞ」








「主上?」
 布を被ったまま、ろくに拭こうともせず、憮然とした表情で腰掛ける陽子の目前に、浩瀚は茶器を置いた。
「…ちゃんと拭かないと、お風邪を召しますと申しましたのに」
「拭いてくれ」
 眉を上げ、言葉の主を見つめる男に、視線を合わさぬ少女。
 一瞬の沈黙が流れた後、浩瀚は立ちあがり、陽子の後ろに回った。まだしっとりと濡れた髪を、布で丁寧に包み込み、含んだ水気を、丹念に吸い取らせる。
「…私が先ほど申した事が、お判りにならなかったようですね」
「ちゃんと拭かないと、風邪を引く、ってことか?」
「そのことではございません…」
 ふう、と、溜息混じりに呟く浩瀚に、陽子は答えた。
「つまり、お前は私をからかっている。そういうことだろ?」
 自分の髪を拭いている手が再び、ぴた、と止まるのが判る。訝しげに振り向くと、浩瀚は、洗い髪を一房捧げ持ち、愛しそうに唇を寄せていた。ぎょっとする陽子に構わず、そのまま呟く。
「主上、敵に後を取られてはいけませんよ。兵法の定石です」
「…離せ」
 困惑した、主のか細い声に、浩瀚はちら、と陽子を見、ゆっくりとその手を離した。
 その仕草に、ぞくり、と、するものが陽子の背に走る。------誘うような、甘い、男の視線。
「主上の勅命とあらば、仕方ありませんね」
 ふっ、と微笑む浩瀚は、更に続ける。
「…けれど、これは私が主上の臣だからです。お判りになりますか」
「浩瀚」
「主上は、こと、迂闊に過ぎるきらいがございます。好奇心だけで、後先考えずに発言なさっていると、やがて大変な目にお遭いになりますよ。------ああ、「大変な目とはなにか?」などとは、お問いにならないように。それを「迂闊」というのです」
「…賭け種(ぐさ)のことを言っているんだな」
「そうです」
 そして、陽子の両肩にそっと手を置き、耳元で囁いた。
「主上…いっそ、私と約束していただけますか。…私以外の男とは、賭け碁をしない、と」
「……え…?」
「私ならば、主上の命には何事も拒みませんし、臣ゆえに、主上の「迂闊」という誘惑に耐えるのも、吝かではございません」
 ……何事も拒まない人間相手に賭けをしてもつまらないじゃないか、と思ったが、後の科白の方が意味深で、とても言い返せる状況ではない。
(「吝かでない」って…、努力する、ってことか!?…ううう)
「…わ…わかった」
 多分、自分の顔は赤い。そう思いながら、浩瀚の声を背中越しに聞いていると、ふいに、髪が掻き上げられ、何か柔らかく暖かいものがうなじに触れたのが判った。
「え…浩瀚?」
 それは、ぎゅっと押しつけるような感覚を残し、次いで触れたのは、指。
「ああ…思ったより跡が残ってしまいましたね」
 楽しそうな声色に続いて触れたのは------ざらっとし、湿った感覚。
「こっ…浩瀚!?」
 それが、男の舌だと気付いた陽子は、無理やり身を剥がし、うなじを押さえながら、思いきり振り返った。己の鈍さに、我ながら呆れ返る。
「おおお、お前、私の…っ」
 真っ赤な顔で睨みつけても、余り効果があるとは思えないが。
 浩瀚は、にっこりと笑う。
「畏れながら、戒めを残させて戴きました。なに、ご安心下さい、主上は御髪を結い上げたりなさらないのですから、誰にも見咎められることはございませんよ、多分」
「多分!?」
「…戒め、と申し上げましたでしょう」
 陽子は、諦めたように、溜息をついた。
「賭けに勝ったのは、私のはずなのに…」
(勝ったのやら負けたのやら…)
「いえいえ、始めから私に勝ち目はございません。主上は思い違いをなさっておいでです」
 そういって、慶の冢宰は、くすり、と笑った。









 ------後日。
「こうなったら、絶対、お前を動揺させる「命令権」を勝ち取るからな!」
 陽子の、この科白で、通算、百三十七回目の「賭け碁」が始まった。
「楽しみにしておりますよ」
「ふふん、実はもう、一つ考えてあるんだ」
「ほう?どういった事でしょう?」
「今言っても面白くないだろう。内緒」
 下手に手の内を明かすと、現在の「置き石無制限」ルールも撤回されかねない、と、陽子は口を噤んだ。こちらが少しでも有利な内に、もう一勝くらいしておかないと。
(これも兵法の手だよな)
 しかし、その命が「浩瀚の髪を洗わせろ」だと、本人が知るのは、まだまだ先の話であった。
 無自覚とはいえ、つくづく、罪作りな王である------。



<了>






 浩瀚に髪を洗って戴きたい!(こらこら) …という、私のドリームはさておき(笑)、おしゃれ系少女漫画によくある「彼氏に髪を洗わせるの巻」を、やってみました。ちなみに、私の碁の知識は「ヒカルの碁12巻まで」程度です(笑)。
 この話の二人は、ただの主従関係よりも、もうちょっと親しい、陽子は無意識に浩瀚を気にしてて、浩瀚はシタゴコロ100%(笑)ながらも、人生の師といった感じで導いている…って関係です。
 で、浩瀚が陽子の髪を洗う羽目になるまでは、すらすらといったんですけど、その先、どこまで書いたらいいのか迷ってしまって(妄想vv)、後半二の足踏みました。「浩瀚抱きつき」シーンと、「浩瀚髪チュウ&うなじチュウ」シーンは、一つにまとめた方がよかったかなあと思ったり。
 しかし、オチに余韻を残しましたが、「陽子、浩瀚の髪を洗うの巻」を書くと、今度こそ、陽子…(妄想)。幸か不幸か(誰にとってさ?)、今のところ、この話は考えておりません(大笑)。


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