*お母さんは誰のもの?


「ただいま」


玄関のドアを開けた瞬間の、何と表現しようか迷うような、それでいて凄く暖かな雰囲気が僕は凄く好きだ。
仕事柄、こうして早く家に帰れることなんて殆ど無くて――帰れたとしても、夜中だったり、若しくは着替えを取りに帰るだけなんてことも沢山ある。――、でもいつだって変わらずに暖かい。これはきっと、十年前には決して感じる事の出来なかった暖かさ。


「おかえりー!」


満面の笑みを浮かべながらパタパタと駆け寄ってきた希を抱き上げてやると、まだ小さな手を目いっぱい伸ばして、ぎゅっと抱き付いてきてくれる。
小さい子特有の甘い匂いと、今の今まで炬燵にでも入っていたのだろうか、いつもよりも暖かい小さな身体。そして彼女にそっくりな笑顔を見ていると、笑顔を浮かべずにはいられなくなる。こんな時、今日も一日頑張ってきて良かったなぁ、なんて思うんだ。
忙しくて、時には危険な目に合うこともある仕事だし大変だけれど、笑顔が見れれば疲れなんてどっかに吹き飛んでしまうような気がするから。
本当に、幸せだと思う。


首の辺りに抱き付いたまま顔を上げ、今日幼稚園であったことなどを楽しそうに話し出した希に相槌を打ちながら頭を撫でたところで、早く帰れた時には希と一緒に玄関まで出てきてくれる筈の二人の姿が無い事に気が付いた。――言わずもがな、それは美和子と、希の弟である護のことだ。
買い物に行くなんて言って無かったよな…それに、もし行くなら希も一緒に連れて行く筈だし。
幼稚園の年中になり、いくら自分の言いたいことを纏めてはっきり口にする事が出来るようになったとしても、まだ幼稚園生。
今がまだ六時過ぎで、割と早い時間でも辺りはもう真っ暗だし、こんな時間に一人で留守番させる事なんて絶対にない。ってことは……?


「お母さんと護は?」


余りにも楽しそうに、手振りも付けて話すものだからずり落ちそうになってしまっていた身体を抱えなおして尋ねると、希は腕を持ち上げ、その小さな指は真っ直ぐにリビングの方を指差す。
どうやら出掛けてる訳じゃないらしい。
希がリビングに居ると言うのだから、間違いは無いだろう。
そのことに少なからずほっとして、再び目をキラキラさせながら続きを話し始めたのを聞きながら、リビングへと足を向けた。


リビングに入ってちょっとした所にある炬燵へと眼を向けると、其処には、何故だかはわからないが何らかの理由で玄関まで迎えに来れなったらしい彼女の少し困ったような笑顔と、そんな彼女にぺったりとくっついている護の姿。


「おかえり」


ぺったりと、本当にそうとしか表現できないくらいに護にくっつかれている――…と云えば少し語弊があるかもしれないが。――美和子さんは、顔だけをこちらに向けて微笑んだ。
それにつられるように、護も横からひょっこりと顔だけを出しておかえりなさい、と云う。美和子さんが言ってくれた後に続けるようにして言うのは、いつものこと。別におかしいことなんて見当たらない。…ただ、ある一点を除けば。


「どうしてそんなとこに…?」


玄関からずっと抱っこしていた希を床に下ろしてやりながら、ごく自然に浮かんだ疑問を問う。
まだ幼稚園にも上がっていない護がいくら甘えん坊だとしても、これ程にまでぴったりとくっついていたことが今までにあっただろうか……いや、少なくとも自分の記憶の中ではなかった。
遊んでる間にはしゃぎ過ぎて机の角で頭をぶつけたり、転んだりして泣きながら彼女に抱きついているところは何度も見たことがある(勿論、その時丁度傍にいれば僕に抱きついてくる事もしばしばある。)が、そんな時でも一旦泣き止んでしまえば、また直ぐに何処かへ遊びに行ってしまうのだ。
自分の興味が向く方へ、それこそ何かに引っ張られでもするように。


だから、何と無く疑問に思って。


いくら家の中だといっても、何もせずにただ突っ立っていれば自然と足も冷えてくるものだ。
着ていたコートとマフラーを脱いで椅子に掛けると、途端に爪先からフローリング特有の冷たさが伝わってきて、取り敢えず炬燵に入ろうといつも座る場所――美和子さんの横だ。――に近付いたんだけれど。
完全に腰を下ろす前に、護の声がそれを遮った。


「だめっ!」


「……へ?」


僕にしてみれば、冷えてしまった身体を少しでも温めるために炬燵に入ろうとしただけだったから、その言葉は余りにも意外だった。
だめ…?な、何がダメなんだ!?


頭の中が疑問符でいっぱいになって、一気に出て来たそれらは、あっという間に隅々まで散らばりながら一斉に答えを探し始める。
今日は早く帰って来れたから、今朝電話で約束したとおりに出来た筈。
護の機嫌がななめな時は十中八九それしか可能性が考えられないんだけれども(希が今より小さかった頃にも、同じ様なことはよくあった。尤も、今は仕事をちゃんと理解してくれるようになったから希がこの事で拗ねてしまうことはなくなったのだけれど、護はまだ小さいから仕方が無い。)、今日はその可能性もないのだ。何か他に機嫌を損ねるようなこと、したっけか…?
そんな遣り取りを隣で見ていた希が僕の反対側――美和子さんの左側に座ろうとすると、またしても護は だめ、と繰り返した。


「ずっとこの調子なのよ」


そう言うと、美和子さんは直ぐ傍にある小さな頭をわしゃわしゃと撫でた。口調と表情は仕方無いな、と云ってるみたいでもその視線はどこまでも優しい。
仕事での捜査中に見せる眼差しの真剣さや強さは今も昔も全く変わらないけれど、こう云う風な時、前よりもずっと優しく笑うようになった。見てるだけで温かい気持ちになれるような、笑顔。
僕と同じ様に彼女の隣に座ろうとした希はと言えば、弟の行動が不満なようで。
口を尖らせながら僕に近付いて来て膝の上に座ったかと思うと、賑やかな声が聞こえてくるテレビへと完全に視線を向けてしまった。
…ふむ。何だか読めてきたような……?
頭の中でもやもやしていたものが少しずつ晴れていくような、そんな感じ。


「ほら、お父さん帰ってきたから一緒に遊んでもらったら?」


ご飯の用意もしなくちゃいけないし。
美和子さんがそう言って立ち上がろうとするのを拒むように、護は彼女の着ている服の袖を引っ張って首を横に振る。
懐にすっぽりと収まったままの希を見ると、テレビから視線を外して僕を見上げた。


「今日ね、護はお母さんと一緒に寝るんだって」
「え」


ヒクリ。
希の言葉を聞いて、高木の頬が僅かに引き攣った。
炬燵机の上に置いていた手がぽとりとずり落ちたところを見ると、彼にしてみればよっぽど衝撃的な一言だったのだろう。


そりゃあまだ小さいんだから、一緒に寝る事自体は別に変な事でもなんでもない。寧ろこのくらいの年齢なら普通のことだし、それは存分にわかってはいるんだけれど。
この様子だと、きっと寝るときも彼女にぺったりだろう……んで、僕が近付いたら何故だかわからないけれど怒られる、と。
そ、それはだめだ!久し振りに家に帰れたと云うのに、それは余りに辛すぎる。せめて隣に寝るぐらいは…そうじゃないと、この疲れをどうやって癒せばいいんだ!
などと考えながら表情をぐるぐる変えている様子は、傍から見ればかなり不審だろう。だが、そんなことにまで思いを巡らせられるほどの余裕は、この時の彼には残念ながらなかった。


「ま、護!お父さんの隣じゃ駄目なのか?絵本読んであげるから!」
「や!」

一刀両断。たった一文字の言葉だと云うのに、何かがガラガラと崩れていくような…そんな音が聞こえてきたような、気がする。
もし彼の思考にいちいち効果音が付くとすれば、今の一言による音は物凄いものだったであろう。


よくよく考えれば、護が完全に寝てしまった後であればちょっとやそっとのことで起きたりしないのだから(それこそ、周りでどんちゃん騒ぎを始めたって起きはしないのだ。)、抱き上げてでも場所を移動させれば良いだけのことなのだけれど。
やはり、余りのショックにそこまで考える余裕は無かったようだ。


「まもるー…」


情けない声を上げた彼を見て、美和子は小さく笑んだ。
もしかしたら彼だって護に負けず劣らずと言える位には甘えん坊なんじゃないかしら、なんてこっそりと思いながら。


――ちなみにこの攻防戦の勝敗がどうなったのかどうかは、定かではない。
fin.
2style.net