*幸せの在り処


「ただいまー?」


玄関で一度言った言葉をリビングに入ってから再び繰り返したものの、その語尾は不自然に上がり、それと同時に首も傾げられる。
いつもだったら玄関から声を掛ければ直ぐに誰か――それは希だったり護だったり、美和子さんだったり…若しくは三人だったり帰って来る時間帯や日によって変わるのだけれど―が迎えに出て来てくれる筈なのに、今日に限ってはそれがなかったから不思議に思いながらも上着を脱ぎリビングへと足を進めたのだけれど、その理由は自分の前に広がった光景を見て直ぐに合点がいった。


ドアを開き、足を踏み入れた瞬間に鼻を擽ったのは甘い甘いチョコレートの香り。
そう、今日――二月十四日―はバレンタインデーだ(バレンタインデーと言っても、警察の仕事には一切関係なくて普段と変わるところと言えば署内の女性達が上司や同僚にチョコレートを配っている光景を目にすることくらいなのだけれど)。
手にしていたコートを一先ず椅子に掛けると、それまでなにやら一生懸命机に向かっている希とそれをじっと見ているらしい護を見守っていた美和子さんが近付いて来て小さな声でおかえり、と声をかけてくれた。


「ごめんね、玄関まで行けなくて」


少し申し訳なさそうなその言葉に首を横に振りながらも――どうやら希に捕まっていたみたいだ。―まだ机に向かっているふたりに視線を向けてどうしたの、と尋ねると彼女の顔に浮かんだのは柔らかい笑顔(この笑顔を見る度に僕の心はふわりと温かくなる)。
そしてほんのちょっとだけ背伸びをして僕の耳に耳打ちしようとするから促されるがままに身体を傾けると、鼓膜を震わせたのはなんだか楽しそうな声。


「希がね、お父さんにチョコレートあげるんだ!って張り切ってるの」
「え?」


思わず上がった素っ頓狂な声がおかしかったのか、また笑みを浮かべた浮かべた美和子さんが僕と同じ様にふたりへと視線を向けて再び小さな声で囁いた。


「友達が毎年お父さんにあげてるって言うの聞いたらしくて、幼稚園から帰って来るなり私も作るってはりきっちゃって…」


ふたりのまだ小さな背中を見つめながら口にされた声とその視線は何処までも優しくて、柔らかくて(そして僕は、結婚してもう5年くらい経つけれど今だってその声が、視線が大好きで)。
知らず知らずのうちに自分の笑顔を浮かべていたらしく、はたと我に返るといつのまにか此方へ視線を戻していたらしい彼女と目が合った。


「嬉しい?」


希からチョコレートもらうの初めてだもんねー、と言う美和子さんは何だか少しだけ意味を取り違えてるみたいだけれど希からチョコレートを貰えるなんて初めてのことだし――今までは彼女が買って来たチョコレートを僕と護と一緒に食べていただけだったし―それはそれでとても嬉しい。
それと同時に、まだ小さくてもちゃんと女の子なんだなぁなんて思ったのは頭の隅っこの方。
うん、と僕が頷きふたりして笑みを浮かべて顔を見合わせた時、それまで机で何かをしている希の隣でじっとその様子を見ていた護が僕が 帰ってきたことに漸く気が付いたらしくぱたぱたと足元に駆け寄って来た。今の今まで気が付かなかったのは、恐らく お姉ちゃんがすることを見るのに集中していたからだろう(一旦集中してしまうと、周りの音が一切聞こえなくなってしまうのはどちらの遺伝なんだろう?)。


「おかえりー!」


にこにこと笑顔を浮かべながら足に抱きついて来た小さな頭を撫でてから抱き上げてやれば、嬉しそうな声をあげて小さな手を目一杯伸ばして首に抱きついて来る。
昔は本当に小さくて最初なんて抱っこするのにもいちいち緊張していたくらいなのだけれど、その頃に比べると身長もぐっと伸びて体重も増えた。
仕事が忙しくて帰れない日も多々ある中で、たまに早く帰って来れた時にこうして抱っこしてみるとその成長の早さを実感する。
まだまだ子どもには変わりないけれど、それでも日々成長している姿を実感できることは本当に幸せだと思うんだ。


あのねあのね、と今日保育園であったこと――今日は何をして遊んだとか、先生に褒められたとか―を一生懸命話し出す護に相槌をうちながらソファーに腰をおろした時、出来た!と言う嬉しそうな声が部屋の中に響き、机の前から立ち上がった希が僕と護へと駆け寄ってきた。


「おとーさん、あげる!」


元気よく差し出されたのは綺麗にリボンでラッピングされた小さな箱(手作りだって言ってたから、包装は多分美和子さんと一緒にしてくれたんだろう)と、それに挟まったピンク色の手紙。
お礼を言って 開けていい?と尋ねると、少し照れ臭そうに、それでもうんと頷いてくれたのを確認して先ずは二つ折りにされた手紙を開くと、そこに書かれていたのは『おとうさんへ』の文字で、その下には黒い服を着た男のひとの絵。
美和子さんに教えてもらいながら書いたのだろう、大きく書かれたその文字はまだ歪で決して綺麗だとは言えないけれど、本当に一生懸命書いてくれたのが伝わってきてまた心がふわりと温かくなる。
希を片腕で抱き上げて隣に座らせた僕はその顔を覗き込み、もう一度ありがとう、と伝えた。


「絵も描いてくれたの?」
「うん!」


いつも着ている黒いスーツに、青いネクタイ。そして絵の中の僕は、とても楽しそうに笑っていて。
隣にピンク色で桜の花弁のようなものが描かれているのは、前に家族みんなで本庁の近くまで行った時に見た桜が希の思い出に残っているからだろうか。
少しだけ髪が伸びたその頭をわしゃわしゃと撫でてやっていると、不意に耳に届いたのは少しだけ拗ねたような声。


「…ぼくは?」


僕の腕の中で遣り取りをじっと見ていた護が急に口を開いたかと思うと、出てきたのはそんな言葉で。
思わず後ろにいた美和子さんと顔を見合わせて笑ってしまった(多分、お姉ちゃんが僕だけに渡しているのがつまらなかったんだろうけど)。
そして美和子さんは笑顔を浮かべたままちょっぴり拗ねてしまったらしい護の前に、同じ様に綺麗にラッピングされた箱を差し出した。


「護のだよ?」


渡された箱を手にした瞬間、ぱぁっと嬉しそうな笑顔を咲かせた護はするりと腕の中を抜け出して美和子さんに抱き付いていた。


世界中の何よりも愛しい彼女の腕の中と僕の隣には何よりも大切な宝物がいて、みんな楽しそうに笑っていて。
今この一瞬が、遠い昔自分が思い描いていた幸せな未来図そのものだったから。


嘘なんかじゃなくて、本当に世界中の幸せを独り占めしたような、そんな気がした。


(今この瞬間が)
(本当に本当に、幸せで堪らないんだ)


fin. /20080213
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