|
*今日までも、これからも 「……どうしよう…」 首に巻いたマフラーに口元を埋め、冬特有の、夏とはまた違った透き通るような色をした空を見上げながら、美和子はぽつりと呟いた。 頬を撫でる冷たい風が、呟く声と共に吐き出された白い息をどこかへ連れ去っていく。 足を進めながら、それでももう一度だけと自分の背後に建つ病院を振り向くと、途端脳裏に浮かんだのはつい数十分前、担当してくれた女医よって発せられた言葉だった。 「おめでとうございます、3ヶ月ですよ」 そう言われた時は何がなんだかわからなくて思わず首を傾げてしまったけれど。 こちらに笑顔を向けながら彼女――50代くらいだろうか、優しい笑みが凄く印象的だった。―に生みますか?と問われた時、何の迷いもなく直ぐに頷いていた自分にほんの少しだけ驚いたのは誤魔化しようもない事実。 それから、まるで波が押し寄せてくるかのように段々と違った感情が込み上げてきた。 自らの身体の中に、愛しい彼と自分の命の分身がいる。 今までに感じたことのないような、言葉ではとても表わしきれないほどのとてつもない喜びだった。 それなのに、病院を後にした今 口から零れたのは他の何でもない、どうしようと言う迷いの言葉。 結婚して半年が経とうとしている今、子どもが出来ると言うことは別に普通のことだ。 経済面に不安がある訳でもないし、自分が産みたくない訳でもない。 渉だって、子どもは大好きだと言っていた(結婚する前だって、その言葉を裏付けるようなことが幾度となくあった)。 …だけど。 ひとつ、たったひとつの不安が美和子の心を曇らせていた。 風に晒され、少し冷たくなってきた指先を擦り合わせ、時折息を吹きかけるようにしながら家への帰路を歩く。 今日は、仕事は休み。ここ最近微熱が続いていて、それを心配した渉に病院に行くように言われたから。 自分では病院なんて滅多に行かないから(そのことに関しては以前から渉にも苦笑いをされたことが何回もある。…彼にしてみれば、 無理をしようとする彼女のことが心配で仕方がないだけなのだけれど、小さな頃から病院はどうも苦手だった。)、待合室で待っている間もなんだか居心地が悪かったのだけれど。 病院に行ったおかげで微熱の原因は妊娠によるものだとわかったから、それについては彼を安心させてあげられる。 病院から家までは少し距離があるからバスに乗ってもよかったのだけれど、なんとなくひとりで歩きたい気分だった。 天気もいいし、外を歩くことは好きだから。仕事柄、普段は聞き込みだったり被疑者を追いかけたり、ゆっくり歩くなんてことは滅多に出来ないのだけれど。 自分と同じように冬服を着たたくさんの人々が行き交う道を、ぶつからないように、それでも頭の中では思考を巡らせながら足を一歩ずつ踏み出していく。 子どもが出来たことは、素直に嬉しい。 渉のことが本当に大好きだし(彼に出逢えてよかったと、今でも心から言える)、そんな彼との間に出来た子どもなのだから嬉しくない筈がない。 でも、……だけど。 抱えきれなくなるんじゃないかと思うほどに溢れてくる嬉しさの後から続くようにやってくるのは間違いなく、不安そのもので。 そしれそれもまた、渉に関してのことだった。 ―…もっと正しく言えば、仕事のこと。 子どもが出来たとなれば、直ぐに休暇をもらわなければならないだろう。 他の仕事……それこそ会社勤めのOLだったとしたらある程度お腹が膨らんできたり、体調が悪くならない限りは普通に仕事を続けることが出来るだろうけど、 刑事と言う職業柄、それは不可能に近い。 万が一被疑者を捉えようとしたときに反撃を食らったりなんてしたものなら、小さな命は一瞬で消えてしまう。……もしかしたら、自らの命も危なくなってしまうかも知れない。 ―それは絶対にだめだ。彼に、昔の自分と同じように人を失う苦しみは感じさせたくない。 それは痛いくらいわかっているのに、もうひとりの自分がその考えを拒もうとする。 (あたしがいないとき、誰が彼を護るの?) そうやって何度も何度も自分自身に問いかけてくる、もうひとりの自分。 この疑問が、美和子を不安にさせている原因の核だった。 今までは、同じ職場でいつだって彼を確認することが出来た。ちゃんといる、彼は生きてるって。 別々の事件を担当することも勿論あるけれど、それでも同じ職場にいる間は安心できた。 もし彼の身が危険に侵されることがあったとしても、一緒にいることが出来れば護ることが出来る、と。 …よくよく考えてみれば本当にそんなことが出来るかなんてわかりはしないけれど、 そう考えないと彼と一緒に刑事と言う仕事を続けていくことは出来ないから(私はそんなに、強くない)。 けれど、私が仕事を休むことになればそれは出来なくなる。 離れたところで、見えないところで、彼が無事に、笑って家に帰って来てくれるのを、声を聞かせてくれるのをずっとずっと待たなきゃいけない。 それが、怖くて仕方がない。 いつの間にか、自分達の住むマンションが見えてきていた。 * * * もうどのくらいの時間、こうしてるんだろう。 帰ってきた時窓から部屋に射していたのは明るい光だったけれど、それはいつしか柔らかなオレンジ色となり、それからややあって漆黒が覆っていった。 何をするでもなく、ソファーに足を抱えて座ったままぼんやりと一点を見つめる。 机に置いたままの携帯はメールを受信しているらしく(それがいつからなのかは、わからない)ピカピカと青い光を放つけれど、 それを手に取る気はどうしても起こらなかった。 そろそろご飯作らなきゃ、今日は早く帰ってこれると思うって言ってたし。 知らず知らずのうちに強く握り締めていたクッションを置いて立ち上がりかけたその時、玄関で鍵を開ける音がしたと思ったら渉がばたばたと部屋に駆け込んできた。 「美和!」 一体何処から走ってきたんだろう。 髪の乱れ具合からすると結構な距離を走ってきたみたい、なんて思いながらも、おかえりと笑んで言うと(ちゃんと笑えてるかな) 僅かに強張っていた表情を弛め、私の直ぐ隣に腰掛けた渉はただいまと返してくれた。 着ていたコートの上着をソファーの背に掛けるのを、またぼんやりと見つめていた私は彼の心配そうな声に現実へと引き戻される。 「…どうしたの?」 「え?」 「メール。いつもは割と直ぐに返ってくるのにこなかったから……」 病院行ってたし、何かあったのかなって思って、と顔を覗き込んでくる渉の顔が、急に込み上げてきた熱いもので一気に滲んだ。 やばい、と咄嗟に顔を背けようとするけれど頬に優しく手を添えられてしまい、それは叶わない。 今まで、特に泣き虫だったわけでもないのに(寧ろ余り泣かない方だったと思う)なんでこんなに涙が溢れてくるんだろう。 なんとかして止めようとするけど、止めたいと言う私の意思に反して涙は次々に頬を伝っては零れ落ちていく。 「どうしたの、…美和」 優しく名前を呼ばれて、それと同じくらい優しく身体を抱き寄せられて、頭が自然と渉の肩に乗る形になる。 接したところから伝わってくる確かな熱に、ますます涙が止まらなくて。 微かに震える指先で服の背中をぎゅっと掴んだ。 ちゃんと言わなきゃ、子どもが出来たんだよ、って。 渉と私の、新しい宝物が生まれるんだよ、って。 「わ、たる…っ」 「…ん?」 背中を、髪をゆっくりと撫でてくれる大きな掌は、何処までも温かくて、優しくて。 止まることを知らない涙に嗚咽混じりになりながらも、なんとか言葉を続けていく。 「あの、……あのね…っ」 「うん」 微かに震える手はそのままに、それでも少しだけ身体を離した私は、渉の瞳を真っ直ぐに見つめてもう一度口を開いた。 「子どもが…、でき、たの…」 最後の方はもう、声になってなかったんじゃないかと思う。 情けないくらいにぼろぼろと涙を零したまま、また大きな肩に顔を埋めた。 嬉しいのに。本当に嬉しいことなのに。 どうして不安は消えてくれないの。 数秒の沈黙の後、背中に添えられていた掌が腰元に回って。 ただただ泣きじゃくるばかりの私を更に強く抱きしめてくれた渉の声が優しく、鼓膜を揺らした。 「……俺はちゃんと、美和のところに帰ってくるから。絶対にいなくなったりしない。……だから、大丈夫。」 渉はわかってたんだ。私が不安に思っていることの、全てを。 止まらない涙の、理由を。 だからだろうか、さっきまではあんなに不安に押しつぶされそうで、あんなにも苦しかったのに、その苦しさはもう無くなってしまっていた。 何か言おうとするけれど、もう言葉にならなくて。 うん、うんと何度も頷く私の頬に触れたのは、彼の唇だった。 「すごい嬉しい……嬉しいよ、美和」 満面の笑顔でそう言うと、今度は唇にキスをくれた渉が、愛しくて、愛しくて、愛しくて。 このひとに出逢えてよかったと、渉でよかったと、本当に、心からそう思った。 (ねぇ、渉。) (私、本当に幸せよ?) fin./20100705 2万打記念でcey様にリクエスト頂きました、妊娠発覚後の高佐でした* 本当はもっと、希が生まれるまでを時間軸にそって書きたかったのですが、 出産経験がない自分が書くと(←あったら吃驚(笑))話自体が物凄く“想像”的なものになってしまいそうだったので、 妊娠発覚後のふたりの話になってしまいました…折角素敵なリクエストを頂いていたのに、私の力不足で申し訳ありません(;_;) 美和さんの不安を、口にしなくてもちゃんとわかってあげて、そんな彼女を丸ごと受け止めてあげられる 高木くんを書きたかったので、こんな感じになりました。 例の如くわたしの希望が存分につまってるので、いつになく高木が男前です(笑)← よろしければ、受け取ってやってくださいませ。 2万打、本当にありがとうございました* |