立命館大学能楽部 - 能・狂言のサークル

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基本データ
作者 日吉左阿弥
曲柄 四(五)番目物
構成 二場
季節 九月
場所 下野国(栃木県)那須湯本温泉

登場人物
シテ 里の女
後シテ: 妖狐
ワキ 仏教の修行者、玄翁(げんのう)
アイ 玄翁の供

あらすじ

玄翁という道人(仏教修行者)が、奥州(東北地方)から都へと志し、下野の那須野が原まで来ると、一人の女が現れ、其処にあるのは恐ろしい殺生石だから近寄りなさるなと注意する。玄翁がその謂れを訊ねると、昔鳥羽の院に仕えていた玉藻前(たまものまえ)が化生の身を見破られ、その後この原の草の露と消えたが、その執心が残って石となったのですと語り、私はその石魂であると告げて、女は石の中に隠れた。

―中入り―

そこで玄翁が石魂に引導(衆生を導いて悟りの道に入らせる)を授けると、石は二つに割れて石魂が野干(=狐)の姿で現れる。昔玉藻前となっていたのを見破られたので、野干の正体を現し、遁れてこの野に隠れ住んでいた所を、三浦介上総介に退治され、残る執心が石となって、今まで人の命を取ってきたが、有り難い供養を受けたから、以降は悪事は致すまいと誓って消えうせる。

玉藻前伝説

久寿元年(1154年)の春、鳥羽院の御所にどこのものともしれない女が現れ、名を化生前と名乗った。化生前は天下に並びなき美女であるばかりか、四書五経にも通じる才女であった。ある秋の日、詩歌管弦の夕べが催されたとき、嵐が吹き荒れ、灯り火が消え暗闇となったが、院の側に侍っていた化生前の身体から光が放たれ、殿中を明るくした。これを見た大臣公家は怪しんだか、院は、「身から光を放つとは、よほど前世で善行を重ねたものと思われる」といたく感激し、名を「玉藻前」と改めさせる。院は玉藻前の美貌と才覚にひかれて、ついに夫婦の契りを結ぶ。

それから程なくして、院が病にかかる。病は日ごとに重くなり、典薬頭を招いて病状を尋ねたところ、「これは尋常の病ではない。邪気の仕業によるものだ」と診断を下した。そこで陰陽頭の安部泰成を召して占わせたところ、「院の病は化生玉藻前の仕業である。彼女を除けば病はたちまちに平癒するでしょう」と申し上げた。泰成によると、玉藻前はもともと天竺に生まれた金毛九尾の狐であり、天竺にては班足太子の塚の神となって、千の王の命を捕らせようとした。また、その後周の后褒姒となって国を滅ぼそうとした。時代は下って天平七年、妖孤は若藻という少女となって、遣唐留学生吉備真備が帰国する船に乗り込み、日本へと上陸した。そして、下野那須野に隠れ住み、朝廷を滅ぼそうと都へ現れたのである。

しかし、これを聞いた鳥羽の院は少しも信じようとはしない。そこで泰成は、「泰山府君の祭りを行い、玉藻前に幣取りの役をさせれば正体を現すであろう」と進言し、泰山府君の祭りが執り行われた。すると、手にした御幣を打ち振るかにみえた玉藻前は、突然その場から消えうせてしまう。

妖孤が那須野に逃れたことを知った朝廷は、東国の武将上総介と三浦介に妖孤退治の勅を下し、八方の軍勢を遣わす。両人は那須野へ赴き、探し回ったところ、ついに草むらから九尾の狐を発見するが、四方八方に飛び回る狐を射止められず、一旦国へ帰り、犬を狐に見立てて百日間弓矢の稽古に励む。この訓練は、犬追物として後の時代まで伝わることになる。こうして訓練を重ね、さいど 妖孤退治に臨んだ両人は、ついに九尾の狐を射止めることに成功する。射殺された狐の遺骸は京に運ばれ、うつぼ船に流され捨てられたが、玉藻前の執心はなおも那須野原に残り、殺生石となった。その後玄翁によって執心が成仏されるところを描いたのが、能「殺生石」である。

狐信仰と殺生石―執心とは

狐は、日本古来より神様の代理、人と神との仲介者とみなされてきた。日本人にとって、農業に関する宗教行事は重要な風習であり、田の神は春の収穫前に山から下り、秋の収穫前に山へ帰っていくという信仰が根付いていた。墓の近く、古墳跡、穴などに住み着いていた狐は人に対して警戒心が少なく、特に秋の収穫期にかけてよく人里に現れたため、いつしか神の使いともみなされるようになった。例えば稲荷明神に仕える狐は、そのような信仰が形となったものであろう。

狐は、中国の陰陽五行説からも、その黄色い色ゆえに、五行を結びつける存在として尊ばれている。陰陽五行は宇宙の森羅万象を現しており、相生の理と相剋の理の二面、つまりプラスとマイナスの二面が絶えず循環することによって構成されている。その循環を結びつける「土」という概念は五気中最大の徳を有するとされているが、狐の色はその「土」色と似ていることから、狐は人と自然との仲介者として中国の人々からも尊ばれてきた。

そのように神と人との仲介者である狐は、同時に人の思いや願いを神へ届ける伝達者としてもみなすことができる。すなわち、狐は、神という精神世界と人間の思いという物質的世界を仲介する存在でもあるのだ。

神と人とを仲介する存在として尊ばれる狐が、なぜ玉藻前伝説では執念の権化として描かれるのか。また玉藻前は金色九尾の狐して、もっとよきものをもたらす存在でもあった筈である。その答えとしては、玉藻前は九尾の狐として最も強大な力を持つ妖孤であるがゆえに、精神世界の最も無なる場から、人間の執心の最も凝り固まった場へと移動することができたからではないかと考えられる。「殺生石」で玄翁が言う「あまりの悪念なかえって善心となるべし」という言葉は、行き場をなくすまで凝り固まった執心が、今度は無へと開放されることを示しているのではないだろうか。執心が石となり、玄翁の法力によって砕けることは、これを象徴していると考えられる。

狐信仰と殺生石―執心とは

狐は、日本古来より神様の代理、人と神との仲介者とみなされてきた。日本人にとって、農業に関する宗教行事は重要な風習であり、田の神は春の収穫前に山から下り、秋の収穫前に山へ帰っていくという信仰が根付いていた。墓の近く、古墳跡、穴などに住み着いていた狐は人に対して警戒心が少なく、特に秋の収穫期にかけてよく人里に現れたため、いつしか神の使いともみなされるようになった。例えば稲荷明神に仕える狐は、そのような信仰が形となったものであろう。

狐は、中国の陰陽五行説からも、その黄色い色ゆえに、五行を結びつける存在として尊ばれている。陰陽五行は宇宙の森羅万象を現しており、相生の理と相剋の理の二面、つまりプラスとマイナスの二面が絶えず循環することによって構成されている。その循環を結びつける「土」という概念は五気中最大の徳を有するとされているが、狐の色はその「土」色と似ていることから、狐は人と自然との仲介者として中国の人々からも尊ばれてきた。

今もある殺生石~那須野へ行こう

能の題材となった殺生石は、今も栃木県那須湯本温泉付近に鎮座している。この殺生石がある那須野は、火山の裾野に広がっており、ゴツゴツとした火山岩が転がる荒涼とした風景となっている。昔からこの付近では硫化水素や亜硫酸ガス、砒素などが噴出しているため、近づく人や鳥を殺すことから、この那須野の石がいつしか殺生石と呼ばれるようになった。今は、かつてほど有害な場所ではなくなったが、今もこの殺生石の付近は立ち入り禁止となっている。なお、玄翁が割った石は一部がこの那須野に残り、あとは全国三ヶ所(新潟、岡山、広島)の高田と呼ばれる場所に飛散したという。


参考文献
観世流謡本「殺生石」 檜書店
日本人はなぜ狐を信仰するのか 松村潔 講談社現代新書 2006
日本妖怪異聞録 小松和彦 講談社学術文庫 2007

執筆: 2004年度入部 I. H. 能楽部紹介冊子「幽姿」2007年度秋号から

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