花に埋もれる

こんな夢を見た。


気付けばどことも分からない真っ暗闇のなかにオレは立っており、目の前には当然のごとく三橋が
対峙している。向かい合わせになったその姿は闇の帳でもぼんやりと白く浮かんでおり、そしてそれは
いつも同じ感覚として、オレの中で付き纏っていた。彼がいる場所はいつも明るく照らされている。否、
照らしているのは彼自身だ。
「三橋」
俯きがちだったその顔を引き寄せ、低く名を呼べば 彼は答えるようにこちらをゆるりと見上げる。三橋。
三橋、みはし。音にならなかった声は、それでも彼にはちゃんと伝わったようで、自身の頬に添えられた
指をそっと握り返される様子に、オレは隠し切れない満足感と溜め息を漏らした。
「三橋」
―― あべくん 。
静かだ。ここには日常の喧騒も周囲の人間も、取り囲む風景さえもない空間だから、オレと三橋しか
いないから この静寂は保たれているのだ。ああだから、三橋の体温も吐く息の細さも、唇の動きだけで
紡がれた言葉の奥に潜む こいつの欲しがっているものも全部、分かってしまうんだな。
三橋、三橋、オレもキスしたい。なあ、してもいい?
耳元でわざと囁いて、それを真っ赤になりながらも恥ずかしげにこくりと頷くその風情に心密かに胸を
弾ませながら、眼前の唇に自分のそれを重ねようと、呼吸を合わせながら目を閉じたのはあまりにも
日常的すぎて、だからオレは疑いもしなかったのである。三橋がそこに、オレの腕の中にいるという
事実を。


あはは、ははは。
心底楽しそうに笑っているのは誰だろう。目を開け三橋がいないことに気が付き、衝撃を覚えるのに
3秒、笑い声に反応するのに2秒。その声の主が田島と泉で、彼らが抱える大きな白いシーツを認識
するのに一秒。その大判の布の上部から、茶色のくせっ毛がちょこちょこと見え隠れしているのを
見つけるまでコンマ5秒。
―― 三橋が、オレのもとから、攫われた?
その疑問が正しかろうと間違っていようと関係なかった。唐突に閃いた考えを前に足は弾かれたように
地面を蹴り上げ、オレは怒りも露に真っ直ぐ三人の背を追い掛けた。
「おお、アベ、すげー顔してんな」
「ふざけんなよお前ら!!」
「ふざけんなだって。返してやるか田島ぁ?」
「やーだね!鬼ごっこだ!」
全身の筋肉を使って 今オレは奴らを追い詰めんばかりに疾走しているのに、肝心の二人はといえば
どこか呑気な口調でふわりふわりと前をゆく。踊るような足取りは決して速くはないはずなのに、
必死になればなるほどオレ達の距離が開く気がして、余計に頭に血が上る。
あいつら、こんなに足が速かったか?―― いや、そんなことはどうでもいい。かえせ。返せ、返せ、
返しやがれ。
「三橋ィッ!!」
息が上がる。足の裏がいい加減痛い。田島達の会話が癇に障る。何度手を伸ばしては、するりと
かわされただろう。建物も障害物もない虚空の筈なのに、オレ達は見えない壁を幾度となく くぐり、
曲がり、そして――

ザザザ、と波の音が聞こえる。ちがうあれは木が出す音だ。ぽっかりと辿り着いた先は馴染みが
ありすぎるほどにある場所で、オレはその急な場面転換にしばし戸惑った。田島と泉はここには
いない。現れたグラウンドと同じくらい唐突に姿をくらまし、同様に三橋を包んでいた大きなシーツも
忽然と消えた。
三橋はどこだ。
『知ってるじゃんねぇ』
『阿部が一番よく知ってるくせになー』
『見えなくても 見えてんだろー』
きゃらきゃらと、何処かで男にしては少し甲高い声が響いてくる。あれは田島か、泉か。水谷の声も
聞こえた気がした。きゃらきゃら、きゃらきゃら。田島の声、栄口の声、花井の声。監督の笑い声まで
風に響いては掻き消えた。貝がぶつかっては反射するようなそれらの音に背を向けながら、オレの足は
自然と『その場所』に向かっていく。
「三橋……」
18.44メートルのオレの場所から、三橋の場所へと一歩ずつ歩み寄るたびに仲間の声は遠ざかり、
周囲の景色は四季を巡る。桜が咲き、蝉時雨が降り、広葉樹が赤く色付き、冷たい雪が地面を覆う。
目まぐるしい変化のなか、春夏秋冬はやがて三回目の周期を終え、すべての灼熱の陽射しも色落つ
紅葉も刺すような雪も 白い花々へと姿を変え、それはグラウンドを余すところなく埋め尽くした。
マウンドも、例外なく。
「…三橋」
ザザザ、ザザ。桜の木々が、風に揺られて頭上で鳴っている。花と花が重なり擦れ合うたびに花弁が
離れ落ち、白雨の美しさで降り注いでいた。
「三橋」
もうそこに彼がいることに、オレはかけらの惑いも抱いていない。こんもりと白い花びらに覆い尽くされた
その場所には、今、マウンドではなく彼自身が隠されている。膝をつき、足許の花の山を細心の注意を
払いつつ 掻き分けていく。三橋が不快でないように、彼に寸分もの傷を与えないように、手のひらで
そっと。
白の破片を探りながら、果たして舞い落ちるその下からは まず彼の薄手のブラウスが花の隙間から覗き、
次いでその細い首が現れる。
「三橋…」
かすかな呟きに応ずるかの如く 一陣の風が渦を巻き、想い人の姿を晒す。同時に周囲はまたすべてを
闇へと戻し、マウンドも木々も輪郭を徐々に滲ませる。辺りには夜の桜の気配と香気、白い花弁の絨毯と。
「起きろ、三橋」
再度の呼び掛けにお前はようやく瞼を開き、朝に目覚めたときの顔で微笑む。
「あ、べ、くん」
ああそうだよ、オレだよ。お前、さんっざん人のことを走らせやがって。心配しただろうが、分かってんのお前。
言いたい文句はどこまでも取り留めなく胸中に溢れたが、そのどれもが喉を通過することはなく、ただオレは
頷いて今度こそその体躯をしっかりと抱きしめた。未だ地面に横たわる三橋に覆いかぶさると、彼を勢いよく
押し倒した時のようにどこもかしこも、それこそ胸やら腹やら、足もその間のものさえも密着することになって
しまい 僅かに興奮がぶり返したけれど、オレ達は顔を合わせると照れ隠しのように笑って受け止めてみせた。
離れる気なんて、さらさらなかった。
「三橋」
三橋、三橋、三橋。目元に唇を寄せ、呼べばお前はさらに背に腕を絡ませてオレを引き寄せる。
「阿部君」
阿部君、あべくん、あべくん。鼓膜を打つその声は同じように熱を孕み、一途で温かでいじらしくて、ああ
食っちまいてえなぁ。三橋。オレの投手。オレの恋人。オレの宝物。まさぐる指は服の上をもどかしく行き来し、
それをくすぐったがる三橋の忍び笑いももうすぐ誤魔化しが効かなくなる。
「あ、べくん」
腕を首にまわし、腰を押しつけ腕を絡め、そうやってお前はいつだってオレを篭絡させる。
「あべ、くん、すき、阿部君、あ、べくん」
言葉を覚えないカナリアみたいな拙いその口調に 背筋が震えるほどの快感を覚えるようになったのは、
いつからだったか。
「好き…阿部君、好きだ……」
愛を告げ、同様にオレの愛をも乞い求めるその唇に答えるように舌を差し入れると、すぐに嬉しそうに
自分のそれも摺り寄せてきた。柔らかな下唇を食んで、唾液を流し入れ、粘膜を舐めまわす。それは
なんて、幸せな感覚なのだろう。
「三橋、三橋…」
夜風からは仄かな桜の香が運ばれてくる。雨が上がったあとの花の匂いだと、オレは思った。どこで
そんなことを知ったんだっけな。思い出せない。三橋がいた気がする。雨が降ったあとに嗅ぐ桜は
雨滴に交じって漂い、普段よりもひときわ強く香気を放つ。三橋と自分の間を流れる花香にさえも
苛立ち、オレはそれを肺に押し込める。清冽な桜の匂い、雨の粒子を含む夜気。むせ返りそうだ。
口の内側には、三橋の舌。身体の下には、三橋の身体。幸福感で体中が満たされ、むせ返って
しまいそうだ。
「三橋、愛している」
あからさまな恋情に彼は微笑み、同じ答えを耳にしながら、オレは目を閉じる。
背には枝に留まれなかった花弁たちの微かな重みを感じ、オレ達は地面に転がってお互いを貪り
合っている。三橋、三橋、三橋。阿部君、阿部君、阿部君。
おびただしい桜の嵐は、いつかオレらを覆い隠すだろう。花にうずまり見る夢は、一体どれほど
甘いものか。そうしてそこには三橋の存在が不可欠であることを知っているオレは、同じ夢を見る
ために、よりいっそう強く恋人を抱き締めたのだった。


【夢で逢いましょう】end
08/2/10
2style.net